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私が園長を務める社会福祉法人虚弱児施設(現児童養護施設)グイン・ ホームの園児の中に、多くの難しい障害をもつ子どもたちが措置されてきたこと。 |
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そして、この障害をもつ子どもたちをより高度にデイ・ケアーする意味を含 めて、社会福祉法人 知的障害児通園施設 白百合学園を昭和47年に設立した。 |
B |
多くの先達の労苦と研鑽にもかかわらず、この分野の実践的保育・教育の 実態とその水準にすくなからぬ驚きを感じた。そして現場における保育・教育内容の研究をする必要性から、神戸障害児療教 育研究所を設立した。何故なら現場に必要とするものは、経験を集積してそれらを体系化することである。このことが学となり 又原理あるいは論となるかである。この学・原理・論の中から治療的教育の適切な技術と方法と態度が提示されるからである。 |
C |
障害をもつ子どもたちが(肢体不自由で知的に遅れのない子どもは除く) 普通クラスに入って学んでいく過程で、果たしてその保育・教育の内容を保証しうるものが展開できるの かどうかに疑問をもった。教育権の保証とは建物、教材、教師が頭数さえそろえばよいということではなく、 保育・教育の中身が問われなければならない。それは集団に参加することでこの子どもたちがもっている 問題性を、どれだけ一つひとつ、着実にとり除き、かつ、子どもの知的発達の向上をより効果的に獲得で きるかどうかという疑問でもあった。それは現状ではとうてい不可能に近いと痛感してきた。 |
D |
障害をもつ子どもたちにとって、教育とは障害を取り除く、その過程にあ る。身体的な成長と知的発達を促し、それをより確実に獲得することである。健康な子どもたちは、大学を 終えるまで学び続けているではないか。障害をもつ子どもたちにも、各々が抱えている問題性に終始一貫し た系統的な教育を長期間行なっていくならば、一つひとつの問題性も取り除いていけるに違いない。きっと 社会集団に所属しうる最小の知的発達の獲得が可能な子どももでてくるに違いない。これらの子どもたちに とっては、健常児の集団に参加することが第一義ではない。社会集団に所属しうるための基本的な、発展的 な課題を考慮した教育を、2から3,4歳まで系統的に徹底的に継続遂行することである。その間、健常児 集団は、必要とされる時にのみ使われる1つの場であり、障害をもつ子どもにとっての教材に過ぎないので ある。つまり、その集団は健常児が障害児に対する道徳観を学ぶ場として優先されるのではなく、障害をも つ子どもたちの問題性を取り除く場として用いられるべきてある。 |
E |
障害児を生まないという保証はない。障害児を生む出生率は、100人中3. 3人、すなわち出生の3.3%と考えられている。統計上、30人中1人の可能性である。自分の子ども、 あるいは子孫に障害児が生まれないという保証はないのである。21世紀は、この問題をより明確に治療的 教育を展開するためにはどうしても脳の機能との関連をとらえる必要があるからである。 |